平手うち
日常,  時事ネタ

妻の悪口を言われて平手打ち

日本時間の3月28日、アメリカ・ロサンゼルスで開催されたアカデミー賞の壇上で、俳優のウィル・スミス氏が、妻ジェイダさんの髪型をネタにしたジョークに激怒し、コメディアンのクリス・ロック氏の頬を平手打ちした。

という事件が連日ニュースを賑わせている。

事件が起きた当初、日本国内では「家族を侮辱されたらこういった行動にも出るであろう」というコメントが多く、またクリス・ロック氏にも制裁を求める声なども多かった。

ウィルスミス氏に対し寛容を通り越して「よくやった!」と言わんばかりの論調が多くを占めていた。

しかし時間が経ち現地アメリカの著名人のコメントが発表されると、日本で巻き起こったウィルスミス氏擁護論とはまるで異なるコメントが続出し我々を驚かせた。

日本と海外の温度差

日本国内のコメンテーターは

「相手を傷つけたクリスロックの負け。」(加藤浩次)

「殴りはしないものの気持ちはわかる。」(玉川徹)

「クリスロック氏にも懲罰が必要。」(谷原章介)

等の意見が多く、ネットでの反応も同様なことが多かったが、海外では

「ただのジョークでしょ。それがクリス・ロックの仕事なんだし。いつもどぎついこと言うけど、今回のは彼にしたらマイルドな方よね。それに私はG.I.ジェーンが大好き」(ミア・ファロー)

「私が敬意を抱く“愛の器”は、他者に対して暴力的に振る舞うことなど決してなかった」(ケイリー・エルウィス)

「正当防衛でないかぎり、誰かを殴るのを容認することはできません」(リチャード・ウィリアムズ)

といった具合の意見が多く(勿論日本にウィルスミス氏否定派もいるし、海外に容認派もいるが否定派の比率は海外(主にアメリカ)の方が圧倒的に高い)映画芸術科学アカデミーも厳しく批難した。本人の意向によるものではあるが、退会する運びとなった。

何故こんなにも差があるのか?

どちらが正しいかどうかという議論はまぁ一旦置いておいて、なんでまたこんなに顕著に違いが出るのかという所であるが、これは国民性の問題と言ってしまえばそれまでなのだが、私にはいくつか思い当たる節があったのでそれを語らせていただきたいと思う。

1・暴力の日常性

言わずもがな日本は平和な国である。これは直感的なものでもなく、2020年の発表された法務省の犯罪白書によれば、日本の10万人辺りの犯罪発生件数以下のようになっている。

殺人

日本 0.2件

アメリカ 5.3件

フランス 1.3件

イギリス 1.2件 

ドイツ  1.0件

強盗

日本 1.8件

アメリカ 98.6件

フランス 154.3件

イギリス 118.7件

ドイツ  47.0件

となっている。

いずれも顕著な差となっており、日本がいかに平和かを窺い知れる事ができる。

当然の事ながら、全てのアメリカ人が殺人事件を起こしているわけではなく、むしろ日本人よりも殺人事件や、それにつながる暴力に敏感になっている人は多い。

それ故に公の場で人を叩くという行為が、家族を守る為の美談であると流布されてしまうと、理由があれば暴力が許容されると言う価値観がこれからの世界を担う子供達にも根付いてしまう。アメリカは長らく戦争でそういった価値観を嫌と言う程植え付けてきた。戦争とは理由をつけた暴力である。もうそんなもの懲り懲りなのであろう。

2・銃社会

この記事を書いている際(2020年4月4日)にも、アメリカカリフォルニア州サクラメントの繁華街で銃撃事件があり6人が死亡、12人が怪我をしたと言うニュースを目にした。

アメリカでは年間約4万人以上が銃が関わった事件で命を落としていると言う。(自殺含む)

そしてコロナ禍突入以前の2019年から比較しても5000件以上増えており、アメリカの抱える銃社会の闇は全く解決の糸口を見せていない。

極端な話ではあるが、ウィルスミス氏があの時あの場所で、銃を持っていたら話は全く別のものになっていたであろう。日本人だってドン引きだ。あの場所に銃を持ち込めるか?とか、実際銃を所持している可能性があるか?とかそういう話ではなくて、銃社会において、暴力性の発露がダイレクトに死に直結するという実績とイメージを伴っているという事なのだ。

3・自制・自律

1970年のアメリカでアンガーマネジメントという心理トレーニング・プログラムが誕生した。これはそもそも犯罪を犯した人々が、怒りの感情と向き合い自制・自律するという矯正プログラムとして誕生したのだが、昨今では、大人の立ち振る舞いとして怒りに任せた行動をとることは恥ずかしいという価値観の元、多くの人たちが行うプログラムとなっている。

先ほど話した銃社会や暴力との兼ね合いもあってか、怒り等の感情にまかせた行動は極端に嫌われる風潮がある。

「そんな事は日本でも同じ」

と感じた方。それは正解である。

しかし強度の問題だ。

例えば飲酒に関して、日本はコロナ禍で減少したとは言え、電車がなくなる直前まで飲酒し、ともあれば外で寝てしまうなんて事もあり得る国である。

会社の飲み会などでは、上司に酒を注ぎ、上司から注がれた酒は例え酔っ払ってしまったとしても飲みきらなくてはならない。吐いて飲んで自我を無くして成長するというなんともおかしな風潮である。

アメリカでは、州にもよるのだが、車の中と屋外は飲酒禁止である州もあり、見つかれば検挙される対象となり得る。そして、禁止ではない州に関しても、スーパーマーケットでは冷えた状態で置いてあるところはあまりなかったりするようだ。(一旦家で冷やさないと飲めない、またはバーなどの店内でないと飲めないようにする為)

こういった制度の関係で、酒に酔うという行為がとても恥ずかしい事とされている。

そもそも何故制度がこうも日本と比べて厳しいのかと言うと、これは宗教上の理由なども関わってくる所ではありますが、主たる理由は、日本は平和故に安全だが、アメリカでは自我を失うと言う事は危険な行為だからなのでしょう。

自身の感情にまかせて平手打ちをしたウィルスミスの姿は、様々な危険性の温床にも感じた人は多かったのではないだろうか?

まとめ

上記3点を通じて共通していた事、それは

アメリカは危険が付き纏うゆえに、暴力に対し敏感

という事である。

どんな状況下においても非暴力を訴えることで平和を獲得しようとしている為に風当たりが強いのだと私は感じる。

しかし、そんな当たり前の事何故日本人は感じないのか?

日本が平和である事と、もう一つ理由があると思う。

それは、コミュニケーションの文化の違いである。

日本人は、言いたいことを言わずに堪える節がある。(それが良いか悪いかは別として)

だからハッキリものをいう人間に対して憧れがあるのだ。幼いが真っ直ぐな少年誌の主人公であったり、何も言っていないのに何かを言っている雰囲気を出す2世議員だったり。(誰とは言っていない)

日本人の【元ヤン自慢】という謎の行いも、その辺りが起因しているのかもしれない。

本来とてつもなく恥ずかしい事であるにも関わらず

「今は大人になった」

と付け加えれば免罪符になりえると勘違いした輩が昔の話を持ち出して【いざとなればハッキリ言えるしやることをやる】という自分のブランドを確立しようとするのだ。

「路上の伝説は死んでつく称号」と言った趣旨の発言をしているナイジェリアの人がいたが、危険な国においては粋がるという行為は命懸けのなのである。生きる事を勝利とした彼らの価値観の中では、イキリ散らすことや暴力に訴えることはその時点で敗北に近いのである。

暴力の【先】の意識がない日本人であるからこそ、例え訴える手段が暴力であっても、家族を馬鹿にするなんて許せないとハッキリと主張するウィルスミス氏がカッコよく見えてしまったのかもしれない。