馬に乗る
「今年の夏は蝉が鳴かない。」
道中、老人は改めて思った。
もう街をでて一月近く経つ頃だが、相変わらず鳴いていない。
季節は相変わらず夏である。
地平線まで続くこの道を、先の見えない道と表現するべきか、見通しの良い道と表現するべきか、疲れきった馬のひく馬車の上でぼんやり揺られていた。
老人の知人が死んだ。それ故に彼は律儀に馬車に揺られて葬儀に向かっている。
【何もこの地域の風習で馬車で行かなくてはならない訳ではない。】
馬車で行く必要は特にない。
馬車しか選択肢が無かったというだけなのだ。
凡そ2月はかかるであろうその道のりは、想像するだけでも暑さに飲み込まれてしまう程だが、他に選択肢があるなら老人は誰かに教えて欲しいくらいだった。
「どうせ死ぬなら、もうちょっと涼しい頃にして欲しかった。」
というのが老人の本音であるが、老人の知人もまた老人故、暑い夏に死ぬのが自然であると自覚していた。
楽しい旅路ではない。
決して羨むものではない。
旅を楽しむ余裕などは老人になると既にどこにも存在しなくなっていた。そもそも旅を楽しむと言う事が殆どの場合、付加価値に支配された愚かしい事だと老人は知っていた。知る事により余裕は必然的に失われて行くものなのだ。
すれ違った青年に軽く会釈をした。
青年は気まずそうにうつむき、目深に被った帽子を、更に深く被り直した。
若さに対して老いの象徴は、存在そのものが皮肉であり世界の否定なのである。青年にしてしまった会釈を取り消せる事なら取り消してしまいたいが、それこそ意味の無い事だと経験は語る。
まだ少しだけ疲れが足りないのだろう。
思いっきり疲れてしまいたいと、少しだけ願ったが、それはほんの少しの願いであった為かなう事はなかった。
老人はもう眠る事にした。
目が覚める頃には馬は死んでいた。
老人はどうした物かと頭を抱えたが、悩みはいつも不毛な悩みの種になるだけと心得ていたので、自ら馬車をひく事とした。
人一人乗る事が限界な小さく質素な馬車ではあるが、さすがに馬車は重い。重くなければわざわざ馬にはひかせまい。
老人は正に念願かなったりと、前のめりに体重を預け進みだした。
一歩目二歩目こそ踏み出す事が不可能だと思える程に重い馬車も、勢いがつけば案外前に進むものである。惰性程優れた力はない。
しかし惰性の力も長くは続かない。多少の石ころや、道の凹凸に脆くも惰性は断たれ、また不可能を予期させる一歩目二歩目が訪れる。そもそも彼は老人である。体力にはすぐに限界が来る。
しかし、馬が引かぬこの乗り物を馬車とよぶのだろうか?
老人は全体重をのせ今までよりも更に前のめりに、頭を垂れ前に進みだした。
一歩目、二歩目、三歩目、四歩目。
五歩目を踏み出したとき、もう老人は馬になっていた。
突然の出来事に多少驚きはしたが、経験は変化に寛容であった。
もう五歩も踏み出す頃には、自らは馬であるという自覚に満ち溢れていた。
成る程、老いは罰などではなかった。変化に順応出来る為に蓄積される経験の結晶なのだ。
馬になった老人は変わらずに道を進んだ。もう小石も凹凸も怖くはなかった。
なによりも、やはり馬車が馬を取り戻した事が嬉しくて仕方なかった。
この旅はじまって以来の激しい感情の高ぶりに老人(馬)は動揺した。
経験は事実の変化には寛容でも、どうやら感情の変化には相変わらず敏感であるようだ。
もう何日歩いた事であろうか、馬は一人の老人とすれ違った。
あろう事かその老人は馬車にも乗らず、歩いて道を行く孤独な老人であった。
孤独は罪だと思った。
馬は老人を救いたいと強く願い、老人の前で立ち止まった。
老人は些か驚いた様子を見せたが、やはり変化に寛容である為、少し考えた後に馬車に跨がり、道を進みだした。馬は満足だった。
案の定、馬は死んだ。
馬として。
そして老人は馬のいなくなった馬車をひきはじめた。
「今年の夏は蝉が鳴かない。」
誰かが呟いた夏の出来事だった。