時事ネタ

おは朝とマスク

私は「おは朝」派である。

出だしから一体何の話だ?と思う人が多々存在すると思うが、その理由はきっと、「おは朝」こと「おはよう朝日です」が一体何かがわからないからであろう。

関西圏に住んでいる人間には馴染みのある物であっても、関西ローカルである為関東の人間には全く通じないのだ。

かく言う私も、去年大阪に引っ越して来るまでおは朝を知らなかった。

おは朝が見たくてテレビを買ったようなものだ。

テレビを見る見ない論争に関しては以前youtubeで意見を述べているのでそちらをどうぞ。

めちゃくちゃ斜めに語っています

距離感の変化

そんな話は実はあまり重要ではなくて、5/8の新型コロナ5類へ引き下げのタイミングで、おは朝のコメンテーターの距離感がコロナ禍以前に戻っており、アクリル板なども無い事がちょっとびっくりしたというだけの話なのだ。

こんなにもスムーズにもと通りになるなんて、なんて素敵な事だと思う反面、だったら今までなんだったんだ?と思うこともまた確か。

外を歩けば、マスクを未着用の人間は増えたとは言うものの、未だ少数派。因みに私は去年ブラジル旅行から帰ってきてからは、外でマスクをつけていることがどことなくバカバカしくなってしまい、室内に入らない限りは基本マスクをしていない。

まぁ、ここではマスク着用の是非を問うつもりは無い。

正義感

新型コロナウィルス感染拡大以降各地で出没した、マスク警察。今後マスク着用の波が緩和されることで、きっと「何マスクつけてるんだよ!」という逆マスク警察が現れる事が予想される。

いずれにせよ他人の傷を弄る事で得られる自身の正しさを主張出来る良い機会であり、それはまさに屈折した正義感の賜物である。

この類の議論はもう腐るほど為されてきたが、一体何処で日本人のDNAにこういった類の正義感というものが構築されたのか?そこは甚だ疑問ではある。

・日本のチクリ教育

小学生の頃、どのクラスでも朝の会と帰りの会が存在しており、我がクラスの帰りの会には「先生あのね。」というコーナーがあった。(因みに、このコーナーは名が違うだけで、各クラス内容は相違無いものが存在していた。)

その内容とは、今日1日の中で見かけた誰かしらの悪行を皆の前で発表して、該当者はその場で立たされ先生に叱責されると言う、社会主義国の暗部を一切隠さずにエンタメ化させたような、地獄のようなコーナーである。

直前まで仲良く談笑して過ごしていた奴が、突如被害者然として友の悪事を暴き出すのである。

このコーナーの真に恐ろしい所は、悪事を暴き出すその瞬間に在らず。その後、告げ口をした生徒を勇気ある行動を起こした勇者として皆で褒め称えるのである。そして帰りの会の後は、特に正義感の強い連中が被害者の周りに集まり、労う。

このような会が全ての学校にあった訳ではなかろうし、時代の産物なのかもしれないが、ある種こういったコーナーが派生する事は必然だったのかもしれない。

何故ならば、小学校の成績というものは当時

相対評価

だったからである。

相対評価とは、成績の割合を初めから決めて振り分ける方式の事である。

例】「1」 10% 「2」 20% 「3」 40% 「4」 20% 「5」 10%

※現在は絶対評価(各々の出来のみで判断する)になっているようだ。

相対評価であるが故に、自身の知識を向上させる努力だけでは良い成績は取れないのだ。他人を蹴落とさなくてはならない。

それ故に先述したコーナーのようなものが産まれ、皆チクリあい、被害者には寄り添う姿勢を教師に見せ得点稼ぎをする。

・その恩恵として

勿論、全ての人がこういったムーブメントに飲み込まれ、人を責める事に意義を見出す人間に育った訳ではないとは思う。

しかしながら、誰かから「正しい!」と称賛される事は自己肯定感に繋がり、とても気持ちがいい物であり、他に何か誇れるものがない人間程、この正義感の虜になる。

社会に出てからも、そこいらに落ちているどこかの誰かが昔喋った一通り正しそうな事を自身の意見として大きな声で説き

「私は正しいんだ。だって正しい事を言っているのだから。」

と悦に浸る。

もう誰にも評価されないのに。

こういった人間がきっと「〜警察」のような物に成り果てるのであろう。

自信がある程、人に優しくする余裕が産まれてくる。つまり、筋トレとダイエットをすれば大抵の人は優しくなれるものなのだ。

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