STAY GOLD
このブログがほぼ独白である事からも察する通りだが、私には殆ど友人がいない。
半分位は望んだ結果でもあるので特に問題はないのだが、たまに自身のコミュニケーション能力の低さに辟易とする事もある。いつからこんなにも人との関係を持続することが苦手になったのだろう?
まぁ、そんな事は特に問題ではない。とにかく私には殆ど友人がいないのだ。
そんな私の数少ない友人が、とても変わっている。病的かつ反社会的であり、通常であればとても許容できるものではない。コミュニケーション能力の低い私が、何故未だに彼との親交が続いているのか些か謎ではあるが、しかしながら彼は、私の数少ない、そしてとてもとても大切な友人なのである。
彼は最近途端に普通の人になった。そのきっかけは思いの外残酷なものであった。
彼と出逢ったのは今から18年前。アルバイト先の寿司屋で、彼が17歳私が21歳の頃に出逢った。彼はとてもすらっとした体型に可愛らしいルックスで、少女漫画に出てきそうなイケメンでよく笑う子であった。一方で私は体重120キロ程ある熊のような巨漢。慢性的な鼻炎である事と肥満体による呼吸不全でいつも息が上がっていた。
当時彼はとある進学校で喫煙がバレる等の問題を起こしクビになり通信制の高校へ通っていた。登校日以外は趣味のバイクをいじる等してフラフラと過ごしていた。私は、Fラン大学を2年間で中退し羽毛布団の訪問販売の会社に就職するも、逃げるように退職し、その後はギャンブルや風俗などで作った借金からも目を逸らし過ごす、何の夢も目標もない割に問題だけは多く抱えるフリーターであった。
周りの大人からしてみれば、行先が非常に心配なチャランポランな2人であった事だろう。
私のアルバイト先に後から彼が入ってきた。
「年始」という、寿司屋にとって、一年で一番の繁忙期。怒号が飛び交う店内に「外の張り紙を見たのですけど。」と空気を読まずに面接の申し込みにきた事をよく覚えている。そのバイト先での初めての後輩となる人物の登場に、私の心は些か踊った。
一緒に配達にでて道などを教えると。
「セキグチさん道チョー詳しいっすね!」
「セキグチさんと一緒に働いてるのめっちゃ楽しいです!」
等と、毎日はしゃいでいた。
携帯電話の番号を聞かれて教えた翌日
「あの子、昨日セキグチさんに携帯の番号教えてもらったって物凄く喜んでたわよ。」と店長から報告を受け、心底可愛い奴だなと感じた。
バイクや車が好きだった彼だが、年齢的に車を持っている友人が周りにあまりいなかった事もあり、バイト終わりに私の車でドライブに連れて行くと、終始楽しそうな様子だった。
ほぼ毎日、神奈川県の秦野市にあるヤビツ峠という峠まで行った。そのあとは目的もなく、地元である横浜市の希望ヶ丘という坂道がやたらと多い街をグルグルと明け方にお互いの体力の限界が来るまで車で走り続けた。なんの生産性もない時間をただただ、2人で積み重ねた。
この頃、新車で買ったマツダのデミオは2年後には走行距離が10万キロを越え新たに買い換える事となる。
ディーラーには
「これ、タクシーよりも走ってますよ。」
と、言われた。
「あの頃は全然寝てなくても動けていたなぁ。」と今感じた。
歳をとったのかな?
わからないけど、とにかく時間は流れている。
彼も私も音楽がとても好きであった。お互いに好きなジャンルは異なっており、当時彼はヴィジュアル系の音楽が好きで、特にJanne Da Arc(ジャンヌダルク)というバンドに心酔しており、私はHI-STANDARDに代表されるいわゆるAIR JAM 世代と言われるバンドが好きであった。この辺りは決して相容れない趣味ではあるのだが、どういった訳か私たちは音楽の話でも非常に盛り上がり、気の合う様相を見せた。
当時、私は地元の知人とバンド活動をしていた。
活動といっても遊びの延長線上にもならない、ただスタジオに入って楽器をいじっていただけではあるのだが、当時は主にドラムを叩いていた。
彼は退学になる前の学校で軽音楽部に入っており、ベースを弾いていた。
お互い楽器が触れる程度には出来ると知って
「今度一緒にスタジオ入ろうよ。」
と私から誘った。
そもそも生産性を何も求めてこなかった2人である。課題曲なども決めずに、突如としてスタジオに入ることには何も抵抗はなかったし、問題はなかった。
適当に楽器で遊び、そのうち何か曲をやろうかという話になった。
お互い趣味が全く違う為共通の曲が何もないと思われたが、彼が軽音時代に先輩に教わった曲の中で唯一私も知っていてドラムを叩ける曲があった
Red Hot Chili Peppers の Coffee Shopである。
スタジオに入って2時間近く、休憩を挟みつつではあるがこの曲だけを延々とやり続けた。
信じられないくらいスタジオで笑い続けた。思えば、この時ほど言葉もない空間で笑い続けたことは無くて、その感情は未だに説明出来ない。
その後2人は様々なメンツとバンドを組む事になるのだが、彼も私も他の人と比較して多少遅まきにではあるが少しづつ大人になり、それと同時にこの時の笑顔を失っていく事となる。
意外な事に彼は保育士を目指す為に保育の学校に進学すると言い出した。
そういえば彼はフリーターではなく、高校3年生で、前途ある若者だったのだ。
私だって20代前半なのだから、前途ある若者ではあったが、自分を前途ある若者であるとは認識していなかった。むしろもはや人生詰んだ位に思っていた。努力しなくていい理由を探していたのだろう。
彼が人生を先に進めた事が、嬉しかった反面、少し寂しかった。
毎日のように無意味な時間を過ごした仲間が、意味のある時間を、他の場所で見つけたような気がしたのだ。
そんな折に
「川崎で焼き鳥屋を出すのだけど、一緒にやらないか?」と同い年の知人から話を持ちかけられる。
既に別の場所に出店した店が好調だった為、2号店を出すのだと。
「最初は少ないが、最低20万の給料は払う。店が軌道に乗ってきたら、給料も随時上げるし、ゆくゆくはアキラ(私)を店の経営者にするつもりだ。出店場所も駅から近くて人通りも多い。周りにライバル店も少ないから独占状態で失敗の要素は今のところどこにもない。1年もすれば月50万位は給料渡せるようになる見込みだ。」
今の私が聞いたら端から端までツッコミまくってその後もう2度と会わない事であろうが、この頃の私には妙な焦燥感と野心があった。これを野心と呼ぶには些か怠慢が過ぎる事とは思うが、若者の野心なんてそんなものだ。2023年現在でも投資詐欺に引っかかる人間が多い事がいい証拠だ。
みんな、何か特別な存在に「労」せずなりたいのだ。
もとい
出来る範囲内の「労」で特別な存在になりたいのだ。
そうして私は努力する理由を見つけたような気になり、放棄に近い勇気を振り絞り、バイトを辞め焼き鳥屋で働き出したのだが、大方の予想通り焼き鳥屋は大失敗。
駅近と聞いていたが、駅から徒歩20分。駅から店までの間に地元の超人気店の焼き鳥屋があった。そもそも売上の管理や、出店計画の全ては誘ってきた知人の親が行っており、半年ほど勤めたものの給料は総額で5万円ほどしか貰えなかった。知人は親の管理している店から解放され、私に店を任せたまま遊びに行って帰ってこない。いつも客がいない寂しい店内で、謎に雇ったバイトの子が席に腰掛けている様は今思い出しても冷や汗が出る。
私は泣きそうになりながら店を飛び出した。
意味のある時間を他の場所で見つけることは、私には出来なかった。
続く
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